拡大再生産と縮小コピー (坂本晴人)

和訳英訳のテイストの違いについて続けるつもりがなぜか大幅な方針転換。

でもこれがチラ裏ってもんでしょう? なーんてね。

書きたいことを書けばいいんですよ、きっと。

 

さて、今回書いてみたいことは作品を創る際に心に留めておきたいことです。

もちろん「私が」です。

誰かに押し付けようってわけじゃないですよ。念の為。

 

作品を創る際、まあこの場合小説を書く際と限定させてもらいましょう。

その時に、何かしら「理想の作品」を思い描くことは大事でしょう。

「目標の文章」と言い換えてもいいかもしれません。

それは具体的に言えば自分の好きな作家・作品ということです。

もっと言ってしまえば真似したい・ああいう風になりたい、といったような。

 

誰それのような文章を書きたい、何々のような話を創りたい、などといった

思いを抱いたことのない物書きは居ないと思います。

たとえば私個人に関して言えば小学生の時に読んだ

「三国志」がそういうものの始まりだったように思えます。

なぜ劇画調の表紙の分厚い三国志が

うちの小学校の図書室にあったかは今でもよく分かりませんが……。

作家単位で言えば北方謙三さんだったり、田中芳樹さんだったりですかね。

割ところころ変わりますが、

少なくとも私の中には常に誰か(何か)が理想として据えられています。

 

前置きが随分長くなりましたが、ここから本題です。

そういった理想を抱くことはとても大事ですが、

同時にとても危険になりうるということは案外忘れられがちだと思います。

誤解を恐れず言ってしまうならば、いわゆる「信者」と呼ばれるような

特定の作品・作者を絶対的な位置に据えてしまうような態度は

創作という観点から見た場合この上なく危険極まりないものでしょう。

もちろん作品観賞という観点からも有害だと思いますが、

そこは論点がずれるので割愛しておきます。

 

さて、ではなぜ私はそういう態度は危険だと思うのか。

それは、ひとつの作品(ないし作者)だけ絶対的な基準に設けて

創作に臨んだ時、完成しうる作品はそれの縮小コピーでしかないからです。

なぜそう言い切れるかと憤る人もいるでしょう。

ですがそうとしか私には思えません。

 

それが好きな作品ならば必ずどこかに好きなエッセンスが存在するはずです。

キャラクターなり、ストーリーなり、台詞回しなり、雰囲気なり。

しかし同時に、嫌いな、あるいは邪魔だと思っているエッセンスも必ず、

無意識かもしれませんが、存在しないわけはないのです。

だからその作品だけを理想に据えて文章を書いた時、それは絶対にどこかで

削られるエッセンスがあって(意識的にせよ無意識的にせよ)、

元々の文章よりは一回り小さくなるしかない。

それでいて理想の枠はそれひとつしかないのだから、

その作品・作者という基準・規模を越えることはない。

 

よく言えば好きな、執筆者がこれはいいと思っているエッセンスを

抽出し、より先鋭化できるとも言えるでしょう。そこは否定しません。

ですが、今「先鋭化」という言葉を使ったように、

それは尖る分結局は細くなってしまうのです。小さくなってしまうのです。

そうしたら最終的にどうなってしまうでしょうか?

私が「コピー」ではなく「縮小コピー」の語を選んだ所以はそこにあります。

 

さて、それではどういった姿勢を取るべきと私が考えているのか。

簡単な話です。わざわざ強調しましたが、

理想に据える作品がそれひとつだけでなければよいのです。

極端な話、ストーリー・キャラクター・台詞回し・雰囲気etcに関して

目標とする作品が全部違ってもいいと私は思っています。

ひとつの要素に対して2つ、3つの理想を持ってもいいでしょう。

それぞれの媒体が全部異なっていても問題なんかないでしょう。

 

そうすればどうなるか?

ひとつひとつのエッセンスに関してはたとえ縮小コピーであっても、

それぞれを執筆者独自のセンスで組み合わせることにより、

新たに元々の作品とは異なるものを生み出すことができるでしょう。

そしてそれを積み重ねれば、

やがては自分だけのものも生み出すことができるでしょう。

 

私自身に例を求めるなら、私は文章としては先に挙げた二人のような、

簡単に言えば硬派な、ついでに言うと漢語の多いものを理想としています。

しかしそれだけでは縮小コピーにしかならないので、

同時に「指輪物語」のような西洋ファンタジーも目標に置いています。

私の作品で突然英語の直訳調の文章が出てきたり、やけに芝居がかった

台詞回しをしていたりするのは実はその辺が原因です。

一見ちぐはぐに感じるかもしれませんが、しかしそのちぐはぐさこそが

「新たな」部分であり、単なる縮小コピーではないという証だと思います。

 

1のものから1以上の価値を創りだし、

そしてそれで以てして更に新たに価値を高らしめてゆく。

「拡大再生産」はそもそも経済学の用語ではありますが、

創作の世界にも同じ形で持ち込める概念なのではないのではないでしょうか。